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金子眼鏡と 仕事と 人と

2022.11.20
千葉・埼玉エリアマネージャー
白崎 貴史


 
白崎貴史1
今も昔も流行は水物。その「流行っているもの」を最前線の現場で扱ってきた当事者であればあるほど、栄枯盛衰の儚さを知っている。金子眼鏡の千葉・埼玉エリアマネージャーを務める白崎貴史もそのひとり。20代前半だった2000年代初頭に訪れたストリートファッションのブームや、同じく2000年前後に起きたトレンド性の強い眼鏡の台頭。それらの「現象」が発生した現場に販売スタッフとして関わり、流行の始まりと絶頂と終わりを見てきた。そこで感じてきたことは、現在の彼を構成する大きな要素となっている。
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流行と現実の狭間に立って。

白崎は東京都出身。高校時代から洋服が好きで、時間があればファッション誌を読み漁り、休日になると渋谷や新宿に出かけた。大学を卒業したのが、ちょうど2000年。当時、都心部では「裏原系」と呼ばれるファッションが流行していた。裏原系とはビームス生誕の地として知られる『原宿BEAMS』の裏手一帯にある、たくさんの小さな店舗から派生したストリートファッションのこと。ストリートを軸としてヒップホップやパンクなどあらゆる要素をミックスさせた、まさにこの時代を象徴する現象だった。
白崎もこのブームに乗り、大学卒業後はアパレルの業界へ。最初は原宿の人気古着屋に入ったが、仕事は販売ではなくバックヤードでの仕分け作業。服屋で働く意味を見いだすことができず、その後は上野や原宿のアパレルショップやスケートショップなどを転々とした。その間、わずか1年半という短期間でありながら、白崎は流行のピークから終焉を目の当たりにする。
「業界に入りたての頃は本当にお客さんがたくさんきましたけど、ブームが下火になり始めると、途端に来なくなる。もう本当にはっきりしてるんです、動きが。シビアだなとつくづく思いました。あまりに早い流行り廃りを目の当たりにするうちに、なんだかアパレルの限界を感じて(苦笑)。同時にずっとこの先まで自分がやれる仕事じゃない、どこかで見切りつけなきゃなって感じ始めました」

眼鏡と接点をもったのは25歳のころだ。池袋パルコ内のメンズファッション雑貨店で働いていた時、サングラスの販売担当となった。2000年代初頭はサングラスがよく売れていた時代でもある。仕事にもやり甲斐を感じ、本格的に眼鏡やサングラスを売る仕事に就きたいと思い、27歳で『株式会社 インフェイス』に入社する。
インフェイスは、金子眼鏡と東京の眼鏡企画会社が共同出資で立ち上げた会社で、両者の展開するブランドを中心にしたセレクト業態の眼鏡店を都内で数店舗展開していた。お台場の大型ショッピングモール『デックス東京』にも店舗があり、白崎はそこのスタッフとして働き始めた。その後、新宿、汐留の店舗を渡り歩きながら販売スタッフとしての経験を順調に積んでいたが、インフェイスの業績は徐々に下降線を辿り2008年にすべての店舗を閉店することとなる。

「ここも服屋のときと一緒で最初はたくさんの人が来てたんです。服屋で働いていた時代の最後が誰も来ないという寂しい状況だったんで、お客様が来るって幸せなことだなとつくづく感じました。でも、徐々にお客様の数が減っていって。こうなっていくと気持ちが落ちるんですよ。僕だけじゃなくスタッフみんなも。そうなると店の雰囲気も暗くなるし、すべてが悪い方向に向かっていく感じでした」ちなみに当時の眼鏡業界は、職人の技術と品質を追求したこだわりの眼鏡と、低価格で気軽に買える眼鏡という2極化の時代を迎えていた。トレンド提案主体ショップであるインフェイスは、そのどちらにも属さない中途半端な立ち位置で、自らの存在意義を失っていった。服に続き、眼鏡の世界でも栄枯盛衰の波に翻弄された白崎は、流行に左右されず将来的にも安定したニーズが見込めるIT業界への転職を考えていた。そんなとき、「ちょっと話をしよう」と連絡を寄こしたのが金子眼鏡の代表・金子真也だった。
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「良い会社」と胸を張れるように。

そのとき、金子はおもむろに眼鏡屋の未来について話し出した。そして念を押すように「眼鏡屋をこんなもんやと思ってほしくない。眼鏡屋の可能性を見せてやる」と白崎に言った。「眼鏡の世界って不透明じゃないですか。すでに低価格帯とか3プライスの競争が始まっていて、もしこの先もそれが主流になっていったとき、未来ってあるのかなという疑問も前からありました。
そんなモヤモヤしていたときに金子社長から『眼鏡屋の可能性を見せてやる』ってあの状況でこんなにもはっきり言ってもらえて、すごいなって感動したし、本当にありがたかった。熱を帯びた社長の話を聞くうちに気持ちが晴れていきました」
金子の言葉に心を動かされた白崎は、2008(平成20)年8月に金子眼鏡に入社し、千葉県浦安の舞浜店のスタッフとなった。

そして時は流れ、入社して14年という月日が経った。その間、いくつかの店舗の店長を歴任して、現在は千葉・埼玉エリアの店舗を統括するマネージャーとなった。仕事のスタンスは入社から一貫して「無理をしない」そして「自然体」。自分の接客スタイルを、良い意味で“当たりさわりのない接客”と表現する。「スタッフによってはお客様との距離をすごく詰めたりとかあると思うんですけど、自分の場合はそういうことはしないですね。どちらかといえば、お客様が求めていそうなものを的確に出すことに集中するタイプで。それはお客様が入店してから立っている時間が長い場所や、手にする商品の傾向を見ながら、『このあたりの眼鏡をお探しなのかな』と判断して。ですから僕の接客はあくまでお客様主導の接客。特別に自分からどうこうするということはないです」そんな彼でも、多くの顧客を抱える店長が引っ張ってきた店舗の店長職を引き継ぐことになったとき、「自分には無理だ」とプレッシャーで押しつぶされそうになったこともある。それでも気負わず、無理せず、自然体でいることだけは貫いた。こうした白崎のスタンスは、自分のペースで品定めをしたい客にとって買い物での心地よいリズム感を生み出し、多くの客の共感を得ることになる。周りのスタッフに対しても同様で、業務における各々の個性を引き出すことに繋がっていった。

店長職に就いてからは、ビジネススキルを向上させるための勉強には余念がない。「特にいまは立場上、最新のマネージメントの方法論みたいなものを勉強したり。簡単にいえばミーハーなんです(笑)。すぐに真似できるかといえば無理なんですけど、頭の中にそれがないよりかはあった方がいいし、いつか役立つかもしれない。それに、他の会社で実践していることを自分が知らないという状況が嫌なんです。他がやってるんだったら自分もやっておきたいし、そういうことをしっかり行う事で自分の会社が間違いない会社になっていくんじゃないかと思っています。眼鏡業界という狭いカテゴリーじゃなく一つの会社としての存在として。やっぱり胸を張って『自分の会社は良い会社だ』といつでも言いたいですよね」


PROFILE

白崎貴史/ Takashi Shirasaki

東京都出身。高校時代から洋服が好きだったため、大学卒業後は原宿の人気古着屋のスタッフとして働き始める。その後もアパレルの業界に身を置き続け、2004(平成16)年に『株式会社 インフェイス』に入社し眼鏡の世界へ。4年後、店の閉店にともなって金子眼鏡に入社。店長を歴任し、現在は千葉・埼玉エリアマネージャーを務める。