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金子眼鏡と 仕事と 人と

2024.04.20
エリアマネージャー/
金子眼鏡店 東京ミッドタウン八重洲店 店長

熊谷 淳

 
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金子眼鏡は今や国内だけで大都市を中心に「金子眼鏡店」などを80店舗近く(2024年4月現在)展開する有力ブランドとなり、高級路線の眼鏡店として知名度も向上、集客力に期待するデベロッパーから出店を要請されるまでに成長した。だが今から15年ほど前は全く状況が異なっていた。長引く不況の影響と格安店の登場により売上高は横ばいジリ貧が続き、自社工場の開設など積極果敢な経営の裏側で懐具合は火の車、明日をも知れぬ日々が続いていた。そんな会社の窮状を、販売最前線で感じていた男性がいる。今は「金子眼鏡店」東京ミッドタウン八重洲店の店長を務める熊谷淳である。
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憧れだった金子眼鏡

熊谷が金子眼鏡の存在を知ったのは大学時代のこと。オリジナルブランド「BLAZE」と、これに続いて上市した「SPIVVY」の斬新なフォルムに魅せられて購入、家族や周囲から初めて「眼鏡が似合う」と言われ、ファッションアイテムとしての眼鏡に興味を募らせた。おりしも就職活動が始まるころで、スーツにも、ビンテージもののジーンズにも合うところがお気に入りだった。
就職先は最初から眼鏡業界と決めていた。金子眼鏡の存在は気になっていたが自分には敷居が高いように思え、2001年4月、地元北関東を中心に店舗を展開していた眼鏡チェーンに就職。この会社での居心地は良かったものの、一つだけどうにも我慢できないことがあった。お客さんから「私に似合うフレームを選んでほしい」と言われても、期待に応えられるデザインの商品が少ないという、取扱商品への不満だった。販売経験を重ねれば重ねるほどその不満は膨らんでいき、お客さんを騙しながら商品を提案しているようなモヤモヤした気持ちで、後ろめたさが拭えなかった。

そんなある夜、何気なく見ていた求人サイトで金子眼鏡の名前を見つけて、熊谷は胸が高鳴るのを感じた。「一度就職したら定年まで働くのが当たり前」という昔気質の両親から反対されるのは目に見えていたが、憧れの金子眼鏡で働きたいという衝動はどうにも抑えられず、親には黙って面接試験を受けた。当時の履歴書には「質の高い商品を扱っている金子眼鏡なら、お客さまに本当の意味で貢献できると思い志望しました」と思いの丈を綴っている。面接試験には10数名の応募があり、熊谷を含め数名が採用された。
こうして熊谷は2006年10月に入社、最初に配属されたのは群馬県高崎市の田園地帯にオープンしたショッピングセンター内の、有力ファッションアパレル店の一角だった。社名を冠した「金子眼鏡店」の出店に乗り出す4年前のことで、まだ自前で出店攻勢をかけるだけの実力はなく、当時はアパレル店舗の、いわば軒下を借りた小売展開で地力を蓄えようとしていた時代である。
高崎店には個性的なデザインのフレームが揃い、コストパフォーマンスも高く、選ぶ楽しさがある店だと感じた。「これなら、お客さんに自信を持ってお薦めできる」。熊谷は新天地での仕事に胸を躍らせた。
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逆境のなかで掴んだもの

憧れだった金子眼鏡の一員として、高崎店での日々が始まった。ショッピングセンターの開店から半年ほどは開店景気も手伝ってまずまずの賑わいを見せ、店内を回遊して眼鏡コーナーに立ち寄る客も多かった。だが半年を過ぎるとショッピングセンターの賑わいは落ち着き、店は目に見えて客足が落ち始めた。
金子眼鏡が提携していたアパレル企業はファスト系ファッションの競争に揉まれて成長に翳りが見え始めており、集客力が落ちてきていた時期でもあった。おまけに眼鏡コーナーは広いアパレル店の奥、太い支柱に隠れるような位置にあり、訪れたお客さんに気づかれにくいのも難点だった。

熊谷は「ともかく、できることは全てやってみよう」と腹を据えた。アパレルの会計待ちのお客さんにさりげなく声をかけてみる。お客さんから見えやすい位置に眼鏡ケースやセリート(眼鏡拭き)など単価の低い小物を置いてみる。小物をお買い上げいただいたお客さんと対話を重ねることで信頼感を醸成し、眼鏡を新調するときは真っ先に相談に来てもらえるような関係をつくる。店内は徹底的にキレイにする。とくに週末は家族連れが眼鏡を手に取って乱雑に置いていく場合もあるが、そのつど陳列を整え直し、指紋の跡があればすぐに磨き上げた。
眼鏡をお買い上げいただいた場合は、お渡し前のフィッティングで気になるところがないかを慎重に確認し、納得していただけた状態でお見送りできるようにした。何か不具合を感じたら、いつでもメンテナンスをさせていただくことを伝えることも忘れない。

良いと思うことを愚直なまでにやり通すなかで、やがて数か月後、半年後に再来店してくださるお客さんが少しずつ増え始めた。時には友人やパートナーを連れてきてくださることも。それは、確実に爪痕を残すことができた証であった。たった一度の接点もムダにせず、次につなげるということ。たとえお買い上げいただけなかったとしても、「またあの店に立ち寄ってみよう」と思っていただける印象を残すこと。お買い上げいただけたお客さんには「あの店で買って良かった」と満足していただくこと。その積み重ねこそが商いの基本ではないかーー。逆境のなかで熊谷がようやく見出した答えだった。

2008年4月には店長に昇格し、店の採算性にも目を向けた。スタッフを含めた人件費や諸経費と店の売上を比較すると赤字店であることは明らかだったが、会社のせいにするのではなく、自分たちでどうにか赤字幅を減らせないか。今すぐは無理でも、1年先、2年先には黒字に持ち込めるよう、工夫してみよう…。そんな経営者感覚を持ちながら、日々の店舗運営と向き合った。

当時の熊谷を誰よりもよく知る人物がいる。金子眼鏡の金子真也社長である。金子は店舗視察で首都圏へ向かうときは努めて高崎店にも足を伸ばし、熊谷の真摯な仕事ぶりを目に焼き付けていた。
「店頭で思うように売れないと、何をやってもダメだという気持ちになりがちだし、何も工夫しないから、ますます売れなくなる。そんな悪循環でモチベーションがボロボロになり、辞めていった人間が一杯いました。だけど彼は決して諦めなかった。努力を惜しまなかった。その姿が、どれだけ僕を勇気づけてくれたか。
ちょうど2008年、2009年ごろは会社の業績が悪化の一途を辿っていた時期。くじけそうな気分の時は、販売最前線で奮闘している彼のことを思い、自分を鼓舞させていました。苦しい時代を一緒に戦ってきた、いわば戦友のような存在です」
金子はたびたび高崎駅前の居酒屋に熊谷を誘った。「売りにくい店で苦労をかけるな」とねぎらいの言葉をかけると、返ってくるのはいつも「大丈夫です。頑張ります」だった。熊谷の高崎店時代は6年あまり続き、馴染みのリピート客は増えていたが、アパレル店を訪れるお客さんの絶対数減少はいかんともし難く、高崎店は全店のなかで売上最下位から一度も浮上することはなかった。

東京駅前の新店店長に大抜擢

「今度、東京に新しい店を出すことになったから、店長を任せたい」。金子から直々に声がかかったのは2012年の半ばごろだった。新店とは、東京駅丸の内側の駅前、東京中央郵便局跡地に再開発された商業施設「KITTE丸の内」内の店である。
このころ金子眼鏡は起死回生の大勝負に出たばかりだった。初めて社名を冠した「金子眼鏡店」の第1号店を、東京の空の玄関口である羽田空港国際線ターミナル内に出店(2010年10月)。国内外から多くの人が行き交うロケーションに店を構えた反響は思いのほか大きく、知名度が着実に上がり始めていた。
これに続く二の矢となるのが、東京の陸の玄関口である東京駅前のKITTE丸の内店(2013年3月オープン)、そして大阪の玄関口である駅ターミナルビルに直結したグランフロント大阪店(2013年4月オープン)である。往来の多い場所に出店することで短期的な売上を確保することもさることながら、「金子眼鏡店」という新しい店舗ブランドを広く知らしめる広告塔の役割も担わせ、その後の店舗展開の礎とする戦略であった。

熊谷自身、大都市・東京の市場で自分の腕前が通用するのかどうか、不安を抱えるなかでオープンを迎えた。周囲から「売上最下位の店の店長だった熊谷にどれだけできるか」と見られていたことは、痛いほど感じ取っていた。「熊谷なら任せられる」と太鼓判を押していたのは金子一人といっても良いほどで、「みんなを見返してやれ」と力強く熊谷の背中を押した。
KITTE丸の内店は熊谷の心配をよそに好調なスタートを見せた。お客さんへのアプローチや接客方法をスマートにするなど多少のアレンジは加えたものの、高崎店時代に学び取った「商いの基本」は東京のど真ん中でも生きた。生きたというよりむしろ、来店客の多い東京駅前の店でこそ、花開いたといっても良いくらいだった。

周囲を納得させるだけの結果を残した熊谷は、その後、東急プラザ銀座店(2016年3月オープン)の店長を経て、東京ミッドタウン八重洲店(2023年3月オープン)の店長を任された。都心部3店舗の立上げを成功させたことで、金子の期待に応えたことになる。「全てがうまくいったわけではないんです。とくに東急プラザ銀座店はコロナ禍での落ち込みが大きかった。インバウンド需要への対応に追われ、国内のお客さまへの接客が甘かったと反省しきりです。そんな時にはいつも思い出すんですよ。高崎店のことを」
熊谷は高崎店が原点だと、たびたび言う。いつでも立ち戻れる原点のある強み。これが熊谷を根底から支えている。

今は東京ミッドタウン八重洲店に加えて、ブランドストリートに位置する丸の内仲通り店、KITTE丸の内店の合計3店を管理するエリアマネージャーでもある。自らが販売するだけでなく、各店の店長やスタッフを側面支援する重要な役割だ。
「最初のころは、ついつい自分のやり方を押しつけようとする部分があって、反感を買うことも多かった。でも最近ようやく、各人それぞれの良さや個性があるなと気づき始めました。『商いの基本』は万国共通だとしても、人によって方法論は異なっていて良い。皆がそれぞれ今働いている店で、自分なりの原点を掴み取ってもらえればと願っています」
実績を上げながらも天狗にならず、謙虚な姿勢で与えられた役割を全うする熊谷。金子社長からの信頼は揺るぎない。


PROFILE

熊谷 淳/Jun Kumagai

埼玉県出身。地元にキャンパスがある理系大学を卒業、就職氷河期のなか埼玉県に本社をおく眼鏡チェーンに就職。28歳で金子眼鏡に転職し、高崎で6年間超勤務した。その後は東京エリアの店長を歴任し、現在は東京ミッドタウン八重洲店の店長と、東京駅周辺の3店を担当するエリアアマネージャーなどを兼務。合気道で心身を鍛える一方、中南米音楽を好み、英語のみならずスペイン語も使いこなし訪日外国人とも円滑にコミュニケーションを図っている。