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金子眼鏡と 仕事と 人と

2021.11.20

メタル眼鏡職人

井戸 多美男


 


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福井県鯖江市郊外。作業場の大きな窓の向こうに見える、白樺やブナの木。夏は若草色の光を窓に放ち、冬は木枝が真っ白な雪化粧をした姿で凛とたたずむ。「春になるとまた少しずつ緑が見えてきてね。自然の芽吹きは本当に綺麗だし、仕事してて心が和むよね」柔和な表情でそうつぶやく彼が自ら建てた、山小屋風のその場所の名は『井戸工房』。金子眼鏡のフラッグシップともいえる【職人シリーズ】の中核を長年担ってきたメタルフレーム職人・井戸多美男の仕事場だ。

全国にその名を轟かせる井戸の眼鏡づくり。彼自身は「しゃべるのが苦手なんだ」と照れくさそうな顔をのぞかせ、それについては多くを語ろうとしない。しかし眼鏡業界に身を置くものであれば、井戸がメタルフレーム、中でも「サンプラチナ」を扱う職人としては唯一無二の存在であることは誰もが知っている。メタルの素材として昔から使われてきたサンプラチナとは、腐食しにくいクロムを多く含んだ合金。通常のメタル素材よりも磨きの時間を数倍かけることにより、プラチナにも劣らない輝きを放つ。しかし、その研磨や加工には熟練の技術を要するため、扱える職人は極めて限られている。ゆえに、近年は素材として使われることは少なくなっている。そんな時代を迎えてもなお、井戸がつくるサンプラチナの美しいフレームは多くのファンを魅了し、全国からのニーズが途絶えない。誰よりも素材の特性を熟知し、フレームのパーツをつくる工程のほとんどを自身が背負うというスタイルの上で生み出される作品の数々。まぎれもなく、絶対的に「替えのきかない」現代の名工の一人だ。
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鯖江の眼鏡づくり発祥の地で。

井戸の生まれは、現在も仕事の拠点とする福井県鯖江市の河和田地区。いまからおよそ100年ほど前、鯖江における農閑期の眼鏡づくりが始まったこの場所で、1948(昭和23)年の春に五人兄弟の三男坊として生まれた。家では、井戸とはだいぶ年の離れた長男と父親の2人が中心となり、自宅裏の作業場で眼鏡づくりをしていたため、幼い頃からふたりが背中を丸くして黙々と仕事に打ち込む姿を見て、そして時には手伝いながら育った。父・井戸久秋は、明治時代に眼鏡づくりのノウハウを得た先人から技術の継承を受けた最初の世代。当時は、ほかの地方から集団就職で鯖江にきた若者たちを住み込みで雇い、眼鏡づくりの技術を教える立場でもあった。

井戸が15歳になった1963(昭和38)年ころからオイルショックが発生する前の1973(昭和48)年までの10年間、高度経済成長期の波に乗り、大手の工場から家内制の工場まで鯖江の眼鏡産業全体が多忙を極めた。井戸の家業も常にフル稼働で、できあがった眼鏡はろくに調整も包装もしていない段階で、問屋が訪れては次々と出荷されていった。その頃から家の仕事を手伝うのが当たり前だった井戸の暮らし。父や兄と同様、彼も眼鏡職人の道を選ぶ他なかった。「ほかに選択肢はなかったね。でも実は、眼鏡つくってて心底難しいとは思ったことってないんだよ。小さいころから父の仕事を見てきたおかげでね。それでも10代から本格的にこの仕事に就いて、眼鏡の完成まで携われるようになったのは28歳くらいかな」そんな時代を経て、いまの井戸の仕事場には眼鏡の製造に要する機械が20機以上置かれている。父の代から手入れをしながら大切に使い続けているプレス機の数々。これらの機械は当時を知る人以外に調整できる人はもうほとんどいない。製造工程において、忘れ去られた手法を再現するために自分でつくった道具もある。井戸の頭の中にはこうしたいというイメージが明確にあり、それを正確に形にするためにこれら大小さまざまな道具を使い、完成までもっていく。それを飄々とこなせるのも、鯖江の眼鏡づくりの礎を築いた眼鏡職人である父と兄の地道な仕事をそばで見てきた歴史があるからこそだ。
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やりたいことができるうちが花。

井戸の仕事場である『井戸工房』は、前述した通り彼が仕事のかたわら自ら建てた城だ。いまから30年以上前、骨組みだけは大工に頼み、あとは妻の協力を得ながらこつこつとつくり続け、完成したのは着工から2年後だった。「この建物は、家内との結晶よ(笑)。大工の技術は全部独学でね。我ながらようやったなと思うよ。材料はね、あちこちからタダでもらってきたもの。親戚から古い窓枠をもらってきたり、床材も小学校の校舎で昔つかってたものをもらってきたりとか。父親は眼鏡の仕事だけじゃなく、自分にできることはなんでも自分でやってた人で、それ見てきてるから。だから、自分で仕事場をつくるのに特別なアレはないよ。なにより、自分でつくりたいものを自分でつくれるうちが花よね」無類の登山好きで、かつては山岳会にも入っていたという井戸らしい山小屋風の工房。壁は幅15cm程度の幅広板を少しずつ重なり合うように取り付けていく「下見板張り」の手法を取り入れ、室内にあるDIYでつくった机やテーブルなどの調度品や日用品など、随所にグリーンを配し、窓から望む木々の緑も相まって調和のとれた空間となっている。「中途半端だったり、バラつきがあるのが一番あかんよね」その言葉は、自らの眼鏡づくりに通じる矜持にも聞こえる。

眼鏡づくり、山登り、大工。井戸の場合、この仕事・趣味・暮らしの3つはすべて地続きになっていて、そのどれか一つでも欠損するとバランスが保てないほど密接な関係だ。「いい仕事というのは、いい環境(仕事場)があってこそだし、仕事があるから休みもとれるし、山も登れる。行けばストレスが発散されて、いやなことも忘れるし、次の日の仕事も頑張れる。そういうもんだよ。山から下りていくときって、少しずつ現実の世界に戻っていく感覚なの。下りながらいつも思うのは『明日からまた頑張らな』って。だから登るんだよ」73歳。体も少しずつ言うことをきかなくなってきた。それでも「自分がやりたいことができてるうちが花」の思いを抱えながら、井戸の眼鏡づくりは今日も続いていく。


PROFILE

井戸 多美男/Tamio Ido

福井県鯖江市出身。市内河和田地区の小さな眼鏡工場を営む家の三男坊として生まれる。高度経済成長期に入り家業が多忙を極めたこともあり、おのずと職人の道を選択。昭和39年、16歳から眼鏡製作の作業現場に入り、父の井戸久秋のもとで修業を開始。技術を研鑽し続けて、メタルフレーム職人の第一人者となる。特に繊細な加工技術を要するサンプラチナ製のフレームにおいて、その技術力と品質は他の追随を許さない。