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金子眼鏡と 仕事と 人と

2021.10.20

KANEKO OPTICALららぽーと豊洲店 店長

 智行


 


林  智行_1
仕事における失敗や挫折は、その後の本人の行方を大きく左右する。まともにダメージを受けて、その傷が癒されることなく舞台裏へと消えていく場合もあれば、それらを糧にして自分を見つめ直し、表舞台で大きく飛躍する場合もある。金子眼鏡に入社以来、7店舗を渡り歩き、現在は『KANEKO OPTICAL ららぽーと豊洲店』の店長を務める林智行にとって最大の強みは、この「失敗」と「挫折」を繰り返してきた自分史と、そこから得た独自の経験則だ。自らを「取り柄のない凡人」と評し、学生時代から、学力においても、また卒業や就活においても、常に周りの集団の後方を走り続けた。それでもなんとか付いていけたのも、自分の努力よりもまわりのサポートがあってのことだった。「失敗や挫折をしても、人の助けがあったから今がある」これは林にとって、動かしようのない事実であり、楔のように胸に打ち込んでいる言葉だ。

生まれも育ちも東京。高校に入学すると、さっそく大きな挫折が待っていた。「クラスに馴染めなくて、ちょこちょこ学校を休むようになったんです。引きこもるわけじゃなく、同じような境遇の中学時代の友達と遊びに行ったりして。でも決して不良じゃないんです。目立つ存在でもない。特に個性もなければ、スポーツとか特技とか輝く何かを持っているわけでもない。それでいて、成績が悪くて学校にも行かない。何かしらでも評価してもらえる特徴が一つもなかった」それでもどうにか3年生になったが、成績の悪さと欠席日数の多さが響き、卒業と大学進学の両方が危ぶまれる。いよいよ尻に火がついた林は毎日早朝と夜間に学校で勉強や補習をし、必死に食らいつこうとする林の姿を見た成績優秀なクラスメイトや若い教師が、補習に付き合う等のサポートをしてくれるようになった。

周囲の助け舟を頼りにどうにか大学へ進学したが、そこでまた生来のさぼり癖が顔を出し、気づけば卒業前に単位が足りない事態へと陥る。「ほんとに、もうどうしようもないですよね(笑)。資格をとったりボランティア活動をすることでなんとか単位をとって卒業できることになったんですが、卒業するのに必死だったので全然就活ができなくて」困り果てた林は、ある日大学の就職支援課に行くと、そこに若い女性職員がいた。彼女は、その後社会へ出る彼に大きなヒントを授けることになる。「その職員の方が、突然『あなたは何が好きなの?』と訊いてきたんです。僕は冗談っぽく『眼鏡をかけた人が好きです』と答えたんですよ。でもその答えそのものは本当のことなんですけど、そうしたら職員さんが『じゃ、それ仕事にしちゃいなよ!』と。その発想はまったくなかったから、びっくりしちゃって。でも、なんだか頭の上で電球がパッと点いた感じになった。あ、それもアリなのかもと。その方は『それでダメだったらまた違うこと探せばいいじゃん、若いんだし』とか、すごいノリは軽いんですけど(笑)、僕としては結構響いたんですよね」
こうしてまた、林はまわりの助けによって今度は「眼鏡の世界で働く」という人生の新しい選択肢を得た。
林 智行_2 林 智行_3

転機となった311。

大学を卒業した2006年の春、林は当時錦糸町にオープンしたばかりの店舗にアルバイトとして入社した。いざこの業界に飛び込んでみたら、これまで自分が会ったことのない先鋭的でクリエイティブ志向の先輩ばかりで圧倒された。店は連日多忙で、先輩の仕事を見よう見まねで実践し、接客の経験を積んでいった。正社員となって2年半勤務したのち、舞浜の店舗へ異動となる。ある程度まで仕事をこなせるようになり、自信も少し芽生えた。林は意気揚々と新天地へと臨んだが、やがて心を折られることになる。
「店長の次という役回りの仕事を求められたのですが、それまでとにかく『接客して売る』ことしかやってきてなかったので、この場所で自分に求められた店舗運営や店づくりのことが、まるでできなかったんです。他のスタッフとの実力差も明白で。そうしたらあるとき、店長から『おまえ、いままで何してきたの?』と。一番言われたくない言葉だったし、言われるのを恐れていた言葉でした。自分自身が一番痛感していたことであり、それをズバッと言われて、完全に自信を失いました。その頃は社会人になって3〜4年目あたり。周りには同じように壁にぶち当たり悶々と過ごす学生時代の友人たちがいて、彼らの転職を考える心境にも影響され、ついに辞めようと思ってしまった。社長にも直接電話で退職希望を伝えて、ご挨拶もして。退職する時期もおおよそ決まっていました。でもその数週間後に、東日本大震災が起きたんです」金子眼鏡にとっても未曾有の事態を迎えることになるこの出来事が、林にとって大きな転機となる。

2011年3月11日。地震発生直後から東京の交通網は完全に麻痺して、都心部の私鉄・地下鉄ともに全線が運行停止。当日夜から少しずつ運行が再開されたが、全線復旧までは見通しのつかない状態だった。幸い交通の影響が少ないエリアで生活していた林は、都心の店舗で通勤できないスタッフの穴を埋めるヘルプの部隊として奔走することになった。そこには、こんな不測の事態が起きなければ会うこともなかったかもしれない仲間や上司との出会いがあった。そして、それぞれがそれぞれの熱い思いを抱いて仕事をしていることを知った。また、店舗によって異なるカラーや世界観も林にとって目から鱗だった。辞める日が近づけば近づくほど、後ろ髪を引かれる思いが強くなっていく。自分が思っていたより、遥かに金子眼鏡という存在の懐は広かった。
「あるとき、ヘルプに入っていた他店の店長さんから長いメールをいただいたんです。『林君に接客されているお客様を見ても楽しそうだし、君自身も楽しそうに仕事をしてる。本当に辞めるのか?これが天職なんじゃないか?』と書かれていました。このメールで霧が晴れたような気分になったというか、すべての景色が変わりました」
自分はなんのためにこの仕事をしているのか。そしてこの会社で何がしたいのか。おぼろげだったことがはっきりした。この事を気づかせてくれた仲間や、一度辞めようとした自分を再び受け入れてくれた社長に感謝の想いを込めて林は、辞職願をひるがえしてゼロから再出発することを決めた。
林 智行_4

つながれていくバトン。

この仕事を天職として生きていくことを決めた林にとって、実は忘れられない遠い記憶がある。「学生時代、ちょうどおしゃれをすることに目覚めた時期に原宿の服屋さんに行ったんです。結構いい店だったんで、ある程度のお金を握りしめて意気込んで行きました。でも僕が場違いな服を着ていたせいか、店員さんは誰も声をかけてくれなかったんです。こいつは買わないだろうみたいな目で、相手にもされない感じで。それでも僕はジャケットが欲しかったので、気に入ったのを見つけてこれくださいって言ったら『やめた方がいいですよ』と鼻で笑われたんですよ(苦笑)。それがトラウマみたいになっているというか、いまでも接客する上で忘れちゃいけない記憶になっていて。

以前、吉祥寺の店舗に勤務していたとき、学校帰りの中学生が来店したんです。最初は恥ずかしそうにしていて会話もままならなかったんですけど、ちょっとずつ打ち解けてコミュニケーションがとれるようになって。そのときは何も買わずに帰ったんですが、1週間後に今度はお母さんと一緒に来てくれて、眼鏡を買ってくれたんです。そして『この前はお話を聞いてくれてありがとうございました』と言ってくれて。お母さんも「この子が、どうしてもあそこ(金子眼鏡)のお兄さんから買いたいって言うから来たんです』嬉しかったですね、本当に。仮に僕がその中学生の子が来たときに、昔自分がされたようなことをしていたら、社長や先輩方が何十年もかけて磨いてきた金子眼鏡の看板を汚すことになるし、その努力を無駄にすることになる。ましてや全国にある金子眼鏡の店舗スタッフに対しても申し訳が立たないですよ」

林がたどり着いたのは、自分が接客した相手がたとえそのときに何も買わずに帰ったとしても、そこに一切とらわれない考え方だ。その客が店を出たあと、心の中で「やっぱり金子の眼鏡はいい」「いつかは絶対ほしい」と思ってもらえたらそれでいい。そして自分の接客がきっかけとなり、その人はあとで別の金子眼鏡の店舗に足を運んで買ってくれるかもしれない。その逆もしかりで、自分の接客で眼鏡が売れたのは、その前にどこかの店舗で接客したスタッフの努力があってのことかもしれない。林にとって、接客はバトンだ。別の店舗で働く仲間へとつなぐバトンでもあり、別の店舗の仲間から自分のもとへつながれたバトンでもある。その過程で誰かにとってのたいせつな眼鏡が見つかれば、こんなに嬉しいことはない。そのために、林は今も店舗に立ち続けている。


PROFILE

林 智行/Tomoyuki Hayashi

東京都江東区出身。大学卒業後、当時展開していた錦糸町店の店舗にアルバイト入社。のちに正社員となり、4店舗勤務経験を積み、2017年6月『金子眼鏡店 渋谷ヒカリエ ShinQs店』の店長としてオープン立ち上げに関わり、現在は『KANEKO OPTICAL ららぽーと豊洲店』の店長を務める。