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金子眼鏡と 仕事と 人と

2021.08.20

GLASSWORKS眼鏡職人
三木文二



 


三木文二
昭和22年2月22日生まれ。名前は「三木文二」。その人柄と仕事をよく知る人は、彼を「折り目正しく、まるで左右対称のような人物」と称する。「名は体を表す」と言うが、生年月日までゾロ目で綺麗に揃っているあたりがまたユニークである。
「朝はね、仕事場にきたらまず掃除して、ラジオ体操。これはもう何十年もずっと続いてる習慣でね、欠かせたことないの。自分でもなんでこんなにきっちりやるんかなと思う。性格というか、まぁ自分にけじめつけるためなのかな」眼鏡の部品づくりからそのキャリアをスタートさせ、今年で56年目。気がつけば、メタルフレームをつくる工程において、できないことはほとんどなくなっていた。メタルフレーム製造のプロフェッショナルにして75歳の現役職人・三木文二は、今日も自らの持ち場で折り目正しい眼鏡づくりに打ち込んでいる。

現在の三木の仕事場は、金子眼鏡のメタルフレーム専門の製造拠点『GLASSWORKS』。2016年、それまで長年在籍していた会社・栄光眼鏡が金子眼鏡の傘下に入ることになり、誰よりも経験豊富な彼は替えのきかない貴重な作り手としてこの場所に迎えられた。いまの立ち位置は極めて特殊だ。他の職人・スタッフは全員が年下。それも、ひと回りもふた回りも違う若い世代がほとんど。しかし、決して彼らを教育する立場ではない。金子眼鏡が「体が続く限りは、ずっと眼鏡をつくっていたい」と常日頃から公言する彼のために用意した持ち場で、彼はひたすら自分の仕事=眼鏡づくりに集中する。そのポストは、ここ鯖江で類稀な技術を身につけ、信頼と実績を積み重ねてきた三木だけのもの。「鯖江の眼鏡の業界に長年おるから、この街全体の仕事がどんどん細くなってくのはようわかってるよ。でもわたしが考えることはただひとつだけで、お客さんの求めるものをきっちり作って出すことしか考えていない。とにかく仕事が好きなもんでね」
三木文二_メガネ工程1 三木文二_メガネ工程2

鯖江の全盛期。その最前線にて。

出身は島根県の隠岐島。 地元の中学を卒業後、集団就職で故郷を離れて大阪ガスに就職。その後、福井県鯖江市の繊維会社で働いていた姉の伝手を頼りに大阪を引き払い、鯖江へ移住。結婚後、地場で眼鏡部品をつくる小さな会社に就職し、眼鏡の飾りやカシメなどをつくる仕事に就いた。この時点ですでに18金などの特殊飾り(金貼り)など高い技術力を要する仕事を手がけ、やがて部品だけでなく、ステンレス製の既成老眼鏡をはじめとした眼鏡そのものをつくるようになる。「大阪まで行って機械と道具を一式揃えてね。教えてくれる人なんていなかった。独学で技術を学んで、自分で腕を磨くしかなかったんだよね。それからはひたすら眼鏡をつくって、小さい会社だったから自分たちの手で売った。よう売れましたよ」

33歳のとき、眼鏡フレームの製造・開発を行う栄光眼鏡に転職。三木はここから眼鏡製造現場におけるあらゆる工程に携わる徹底した現場一筋の人生を歩むことになる。まずここで着手したのは製造設備と製造ラインの再構築。当時の栄光眼鏡はまだ機械も少なく、製造環境はきわめて脆弱だった。月間2000本ほど製造していたが、景気が上向いてくるとオーダーは3500本を超え、さらに5000本を超え、世の中が空前の好景気に湧き始める1980年代半ば以降には、ついに10000本を超えた。そして、その生産数を維持するための社内工程における設備導入と技術の確立はすべて三木の陣頭指揮のもと行われ、刷新された。つまり鯖江の眼鏡業界がもっとも活気に満ちて多忙だった時代に、現場の最前線でハード(製造設備や環境)とソフト(製造技術)の両方を生み出し続けていたことになる。「とにかくフル稼働。休む間もなかったね。帰るのは毎日夜の11時とか12時。まぁ、のめり込んだ。楽しかったですよ。よう売れるからやり甲斐もあったしね」この経験は、三木にとっていまでも仕事人としての基準となり、強みとなり、また何よりの宝物となった。
三木文二

たかが眼鏡。されど眼鏡。

眼鏡に限らず、あらゆる商品の姿形は時代の変遷や流行を受けて変わり続ける。しかし、眼鏡づくりの考え方そのものは昔も今も変わらないと三木は言い切る。「求められるデザインとかは変わるけど、こと製造となると基本的な流れは昔と変わらないよね。変わったのは材料だけ。昔は真鍮とかステンレスで、いまは合金、アルミニウム、チタンとかね。チタンでも近頃はベータチタンに変わったり。もちろん材料によって作り方も手順も変わるし、同じ作業工程でも材料ごとにかける時間も按配も変わる。それを全部扱ってきた経験があるから、いまはどんな材料がきても磨きから金型作りまで全部できるよ。できないのはメッキだけかな(笑)。教科書なんてものはないから、自分が体で覚えてきたものがすべて。これって誰にも盗めないからいいんですよ(笑)」
眼鏡職人として、彼が常に念頭においているのは「眼鏡は顔にかける道具」という部分だという。顔という人体のパーツの中でも最も目立つ部分に使う道具が、その人にとって大事じゃないわけがない。つまり、作り手が思っている以上に使い手は眼鏡を重要視しているということを忘れてはいけないと、毎日のように自分に言い聞かせている。「眼鏡って安いものじゃないし、絶対に大切に扱うはずなんですよ。眼鏡を足で扱うなんてことしないでしょ?その人が毎日大切に扱うものなんだから、こっちも一個一個大切に作らなきゃいかんですよ。たかが眼鏡、されど眼鏡なんです」


PROFILE

三木文二/Bunji Miki

島根県隠岐島出身。5人兄弟の3男として生まれ、中学卒業後に集団就職で大阪ガスに就職。やがて姉が鯖江で暮らしていることをきっかけに自身も鯖江へ移住。結婚後、眼鏡の飾りやカシメなどの部品を製造する会社に入り、老眼鏡の製造から眼鏡づくりのキャリアをスタートさせる。その後、33歳のときに栄光眼鏡に転職し、職人の立場で企業の成長を支え続けた。2016年、栄光眼鏡の経営を引き継いだ金子眼鏡に活躍の場を移し、同社のメタルフレーム製造拠点『GLASSWORKS』で現役の職人として眼鏡をつくり続けている。