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金子眼鏡と 仕事と 人と

2025.09.28

金子眼鏡店 青山店 店長

野田吉之介


 


野田吉之介1
赤坂見附から表参道へと続く国道246号(青山通り)周辺は、高級ブランドの店が点在するエリアだ。まだ知名度も乏しかった金子眼鏡が表参道近くに青山店を構えたのは2015年4月のこと。「金子眼鏡店」ブランドの勝負を賭けた、路面店のオープンだった。
開店から数か月後、眼鏡販売のスキルは半人前ながら、野心だけは一人前の男が異動してきた。それが、現在は青山店の店長を務める野田吉之介だ。
野田吉之介2 野田吉之介3

軽いノリで始めた眼鏡店の仕事

野田は高校時代まで北九州市で過ごし、そのまま地元に残るつもりでいた。そんな野田に上京を強く薦めたのは、地元で不動産会社を営む父親。不動産ビジネスが活況を呈する東京で学んだ経験があることから、「遊ぶだけでも良いから東京を体験してこい」と背中を押した。野田は上京して大学に入学、父親の甘い言葉を真に受けてか、勉強はそっちのけで、日々遊びに興じた。
大学時代には大手鞄ブランドの店でアルバイトをした。もともとファッションが大好き、人と喋るのも大好きとあって、販売の仕事は自分向きだと感じていた。金子眼鏡との接点が生まれたのは、千葉県舞浜のショッピングモール「イクスピアリ」の鞄店で働いていた時のこと。他のテナントの従業員らとのバーベキュー会に参加する機会があり、ここで金子眼鏡の店員らと知り合った。
「眼鏡店の店員って、どこか堅物で無味無臭な印象を勝手に抱いていたのですが、金子眼鏡の店員は面白くて話題も豊富な人たちで、すぐに意気投合しました。自分よりも人生経験が豊富な先輩世代だったので、もっと話がしたいなと自分から近づいていったところ、『ウチに来れば?』という雰囲気になって」

こうした軽いノリの延長で、2014年6月から金子眼鏡のイクスピアリ店でアルバイトとして働くことになったわけだが、実は、野田は眼鏡をかけたことがなく、眼鏡店に立ち寄った経験もなかった。鞄の販売の延長で、「要はレンズが入ったフレームを売れば良いんでしょ」といった、浅い動機で始めたのが正直なところだった。
度の入っていない伊達眼鏡をかけて店頭に立ち始めてから、眼鏡店の仕事の奥深さを知る。視力検査を経てオーダーメイドでレンズを作ること、バックヤードでレンズを削って眼鏡に仕上げる加工作業があることも初めて知った。鞄の販売とはかなり勝手が違っていて最初の1か月は戸惑いも多かったが、「分からないことは先輩たちに聞けば良いや」くらいの感覚で接客をこなした。
少しずつ仕事に慣れてきたころ、近々青山店がオープンするという話を聞き、野田は胸が高鳴るのを感じた。新しい店舗ブランド「金子眼鏡店」のフラッグシップ店と位置付けた店とあって、各地から選りすぐりの精鋭スタッフがオープニングメンバーに選ばれていたが、ファッションの一等地で働いてみたいという衝動は抑えがたく、野田は無謀にも「青山店に行きたい」と直訴。アルバイトの身分だった野田の直談判は軽くあしらわれたが、身の程知らずの意気が買われたのか、休暇明けの初日に青山店にヘルプで入るよう要請があった。野田が有頂天になったのは言うまでもない。
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「本気スイッチ」が点る

人手が足りていないときの臨時要員、という立場ではあったが、青山店での初日はワクワクが止まらない一日だった。地元住民が主な客層だったイクスピアリ店とは全く雰囲気が違い、ファッション感度の高いエグゼクティブクラスのお客様が多く、熟練スタッフの目の輝きや接客の腕前にも舌を巻いた。
その後もたびたびヘルプで青山店に行く機会があり、「ここで働きたい」との思いは募るばかり。そんな野田の野心を察した八木数正店長が直々に社長に上申して、野田の青山店への異動が決まった。アルバイトで人事異動が発令されるのは極めてレアケースだ。青山店での勤務が決まったことで、野田はようやく腹をくくる。「この店でお客様と対等に対話をするには、今の自分では全然ダメだ。猛勉強をしなければ」と。根っからの勉強嫌いだった野田に、本気モードのスイッチが入った瞬間だった。

野田を徹底的に指導したのは八木店長だった。八木は業界他社からも名前が知られるほどの、眼鏡販売の達人。お客様への声のかけ方から対話の進め方、潜在的なニーズの掘り起こし方、商品提案の流れ、レンズの選択に関するアドバイスなど、八木から伝授された達人技の数々を、野田は貪欲に吸収した。たびたび指摘されるダメ出しにもめげず、それを自分の肥やしにした。
眼や眼鏡に関する知識の習得はもちろん、バックヤードでの加工作業も含めた業務を全てこなせるようになったことから、野田は晴れて2015年12月に正社員に採用され、さらに本気モードを加速させていく。青山店は細長い建物で売場は1階と2階に分かれており、野田は当初2階で待機する担当だったが、やがて1階を担当するようになった。
「最初の頃は、周囲のスタッフに助けられながら売れる雰囲気を作ってもらい、僕がクロージングをするような役割だったのですが、徐々に自分で良い雰囲気を作れるようになりました。お客様の満足度向上だけを意識しながら売場をコントロールできるようになってきたのも、以前との大きな違いでした」

青山店で頭角を現した野田は2020年11月、副店長に昇格。その半年後、新規オープンの東京ソラマチ店の店長就任を打診される。「人の上に立つ店長という立場になることで、本当の実力が分かる」と考える、社長の判断だった。下町風情の残る墨田区、東京スカイツリーの足元にあるショッピングセンター内のインショップとあって、地元住民や家族連れ、インバウンドを含む観光客の多い大衆的なロケーションだ。
当初は都落ちを言い渡されたような感覚もあったというが、異動する前に八木店長から「青山店のような、かしこまった接客だと全く売れないよ」と指摘され、ハッとする。いつの間にか、青山店での接客に染まりすぎていたのだ。そこで、接客スタイルの引き出しを増やす機会にしようと発想を転換。店長ともなればスタッフのマネジメントも含め会得すべきノウハウも増えるので、自分のステップアップになると自らを鼓舞したのだった。
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環境変化を自らの進化に

東京ソラマチ店の立上げで功績を残したあと、2022年10月、今度は渋谷パルコ店のオープニングで店長を務めることとなった。渋谷は若者が客層の中心で、青山ともソラマチとも異なる。尖ったファッションを好む来店客も少なくない渋谷パルコ店は、金子眼鏡にとっても顧客層のレンジを広げるための重要な試金石だった。
会社の期待に応えて渋谷パルコ店のスタートを軌道に乗せたあと、2023年11月、野田は青山店に店長として戻ってきた。正社員に採用されたころから「いつか、ここで店長になる」と自分に言い聞かせてきた、その野望がようやく実現したのだった。
店長を任された野田は、これまでの経歴で培ってきたノウハウや経験知を生かして、ディスプレイや陳列方法を一新、スタッフの配置やオペレーションも一から見直した。副店長時代に「僕ならこうしたい」と考えていたことや、東京ソラマチ店、渋谷パルコ店で試してきた方法を集大成したものだ。
大きな変更の数々に、年長のベテランスタッフから不平不満もこぼれたが、じっくりと面談を重ねることで理解を得るよう努めた。とくに注力したのは、一人ひとりの役割や責任を明確にした上で、チームワークで販売するようにしたことだ。
「他の眼鏡店では十分な対応をしてもらえなかったお客様も全て引き受け、ここで満足のいくお買い物をしていただきたい。そのくらいの気持ちでやっています。金子眼鏡の知名度も向上しているので、青山店も期待を上回る店でなければならないと思っています」


かつてアルバイトで働き始めたころは、「チャラチャラした男」「すぐに辞めそう」など、野田の評判は必ずしも芳しくなかった。だが「ここが自分の居場所だ」と確信した青山で八木店長と出会い、大きく意識が変わった。そして短期間のうちに異なるタイプの店を渡り歩くという環境変化を、自らの進化につなげてきた。勤務先の異動で自信やモチベーションを失う人もいるなかで、野田の「化け方」は出色だ。
10年間にわたって野田の変貌ぶりを見届けてきた前・八木店長(現・エリアマネージャー)は、「青山店に来た当初から、広い視野をもって動ける面白い逸材だと感じていました。当時はまだヤンチャが過ぎる面もあり、何度も叱った覚えがありますが、叱られても萎縮しないのが、いかにも彼らしい。今では、よくここまで成長してきてくれたと、親のような心境です」と言う。
野田を支えてきたのは「現状で満足せず、もっと高みをめざしたい」という野心、上昇志向だ。青山店でやるべきことはまだあると言うが、次にめざしているのは複数店舗を管理するエリアマネージャー。社歴の長いスタッフも徐々に増えてきた金子眼鏡のなかで、野田は若手の新世代に相当する。これからどんな新風を巻き起こしてくれるのだろうか。


PROFILE

野田吉之介/Kichinosuke Noda

福岡県北九州市出身。鞄店でのアルバイトを経て2014年6月に金子眼鏡の「KANEKO OPTICAL」イクスピアリ店で眼鏡販売のアルバイトを開始。「金子眼鏡店」青山店に異動後、2015年12月に正社員として採用された。「金子眼鏡店」東京ソラマチ店、同渋谷パルコ店の店長を経て2023年10月に青山店の店長に就任。帰郷時に父親も金子眼鏡の商品を使っていたことが分かり、不思議な縁を感じたという。