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金子眼鏡と 仕事と 人と

2021.12.20

金子眼鏡店 二子玉川ライズ店 店長

東野英生


 


東野英生_1
自由人であり、風来坊。金子眼鏡の直営店がまだ1店舗しかなかった時代に入社して、今年で22年目を迎えた東野英生。2000年代以降、全国に店舗展開して金子眼鏡の雛形がつくられていく過程を見つめてきた。そんな彼の若き頃を表現するとき、この2つの形容詞がぴたりとはまる。現在、金子眼鏡店二子玉川ライズ店の店長を務める東野が、いまの仕事にたどり着くまでの経緯は少々異色だ。
ときは1998年、滋賀県立大学4年生だった東野。就職氷河期といわれた時代の中でも最もシビアだった世代。まわりが毎日就活に汗を流している頃、東野はその様子を遠巻きに、涼しい顔で見つめていた。
「自分たちの世代の就職事情はたしかにシビアだったんですけど、まわりは結構次々と就職先を決めてたんですよね。それを『わー、すごいなー』と思いながら一歩引いて見てました。まるで他人事のように(笑)。僕はといえば、やりたいことが見つからないから動きようがなかった。だから焦りも全然なかったですね」唯一、社会に出てからの仕事として興味があったのはアパレル。もともと服が好きだったこともあり、1社だけ面接を受けたのが有力セレクトショップ。1次、2次の面接を順調にパスしたが、3次面接で落とされた。それでも、東野は飄々としていた。「別に仕事が決まらなくても、死ぬわけじゃないからいいやくらいに思ってましたね(笑)」

しかし東野は知ってかしらずか、その2年前に現在の仕事へとつながる足がかりをすでに掴んでいた。服が好きだった彼は、自分が住んでいた滋賀から京都まで電車で足を伸ばし、よく買い物に出かけた。京都の中でも高感度なショップが点在している北山エリアに好んで通った彼は、そこで1軒の眼鏡店を見つける。その店は、東京や大阪の専門店にも引けをとらない、業界的にも注目を浴びていた眼鏡のセレクトショップだった。まるで洋服のように、あらゆるブランド、あらゆるデザイナーの品を厳選した新しい眼鏡店の形、そしていまだかつて見たことのない刺激的なデザインの品々に感銘を受けた東野は、その後アルバイトで貯めた金を握りしめて、その店で気に入った眼鏡を購入した。すると、面白い現象が起きた。
「さっそく買った眼鏡をかけて大学に行ったら、ちょっとびっくりするくらいまわりの評判がよかったんですよ。で、ふた言目にはみんな『それ、どこで買ったの?』って。特に女子からの評判が良かったから、余計気分が良くて(笑)。もともと自分の服のテイストと手持ちの眼鏡がいまいち合ってないなと感じていたんですけど。そのとき、眼鏡ひとつでこんなに変わるんやと思いました」まさに眼鏡に対しての見方が一変した出来事だった。そして東野が体感したこの現象は、同じ頃に日本の都市部のあらゆる場所で起こっていた。それが1990年代以降の、いわゆる「アイウェアブーム」だ。
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アイウェアブームの先に見た未来。

東野の眼鏡観を一変させた出来事の背景にある、1990年代前後の国内眼鏡シーンに起きた変革についてここで少し振り返っておきたい。1980年代後半は、DCブランドや海外のメジャーな洋服ブランド名などが先走りした、いわゆる「ライセンスブランド」のブームの絶頂。しかし同時期、東京や大阪などの都市部ではブランド名に頼ることのない先進的でデザイン性の高い眼鏡を、服のセレクトショップと同じロジックで取り扱う小売店が出現し始めた。その導火線に火をつけた草分け的存在が、1985年に東京・原宿で誕生した店『オプティシァンロイド』。かくいう金子眼鏡も、その頃にリリースした初の自社ブランド『BLAZE』をこの店に売り込み、苦労の末に認められ、取り扱われたことでのちのブレイクの礎を築いた。
1990年代に入り、ライセンスブランドのブームは沈静化。ブランドの看板力や知名度に煽られることなく、多種多様なアイテムから自分の感性で選ぶユーザー意識が芽生え始め、オプティシァンロイドが先鞭をつけた「眼鏡のセレクトショップ」が全国に増え始める。そして金子眼鏡の金子真也をはじめ、当時30代の若い経営者が「眼鏡も服と同じファッションアイテム」という理念を掲げ、その先の未来を切り拓いていった。東野が眼鏡に反応したのは、まさにそんな変革期。彼もまた、そのシーンの向こう側に未来を見た。

東野が20歳になった頃、眼鏡専門誌『MODE OPTIQUE』(モード・オプティーク)が創刊した。その誌面に掲載されていたのは、「アイウェアブーム」という一大潮流のど真ん中にいる国内ブランドのそうそうたる顔ぶれ。東野はこの雑誌の最新号を必ず購入するようになり、その頃にはすでにセレクトショップで買った眼鏡を数本持っていた。「就職先が決まらないまま大学卒業を2ヶ月くらい後に控えたとき、自分がいま一番興味があることって何やろって考えたとき『眼鏡や』って思ったんですよね。で、最初に眼鏡を買った京都の北山の店に押しかけて、オーナーに『眼鏡の仕事がしたいんです』って言ってみたんですよ。その頃はなんとなくショップの店員ではなく、眼鏡づくりの現場の方に興味があって。そうしたら『福井県の鯖江市が本場の産地だから、まずそこに行ってみたら?』と勧められたんですよ。それで、よし鯖江行こうと。相変わらずノープランですけどね(笑)」
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無謀な若者、やがて店長となる。

休講日の朝、愛用の吉田カバンの「PORTER」のバッグに、歯ブラシと着替え、そして愛読書である『モードオプティーク』を一冊詰め込み、鯖江に向かった。ノープランの東野なりの算段はこうだ。その雑誌に掲載されているメーカーのうち、鯖江に拠点をもつ3社に当たりを付け、電話で直接アポイントをとる。その会社がいま求人しているかどうかも不明。仮にしていなくても、彼にとってはまるで関係なかった。すると電話での熱意が伝わったのか、1社目も2社目も突拍子もない若者の訪問を快く受け入れてくれた。しかし、そこですんなり仕事までもらえるほど世の中は甘くない。ただ2社目の社長が、金子眼鏡を紹介してくれた。奇しくも、東野が3社目にアポイントをとろうと考えていたのも金子眼鏡だった。
紹介もあってか、2社目の訪問後に金子眼鏡の本社で部長に会えることになった。東野は、いま学生であり、バイトをして貯めたお金で買った眼鏡のことや、『モードオプティーク』を愛読してここにたどり着いたこと等を伝えた。「たぶんいろいろ喋って『こいつ面白いな』と興味を持ってもらえたんやと思います」すると、たまたま会社にいた当時専務だった金子真也と会うことができた。金子は東野と会うなり「きみ、眼鏡が好きなんか?」と尋ねた。東野は「はい。めっちゃ好きです。この業界で働きたいです。とりあえず着替えと歯ブラシを持ってきてるので、今日から働けます」ときっぱり言い切った。ちょうどその頃、金子は若い人材がほしいと思っていた。無鉄砲な作戦で幸運をたぐり寄せた東野はこうしてその後正式に金子眼鏡に就職し、眼鏡の世界に飛び込むことに成功した。この破天荒なエピソードは、現在でも金子眼鏡の古参の社員の間で語り草となっている。

東野が金子眼鏡に就職した1999年は、まだ直営店が函館店の1店舗しかなかった時代。おのずと本社での勤務となり、製造の現場で検品業務や出荷業務を担当した。たしかに眼鏡に携わる仕事には就くことはできた。しかし、これが自分がしたかった仕事なのかという疑問が徐々に湧き始めた。かといって眼鏡職人の道は、実際にその現場を見て、とてもじゃないが自分には無理だと早々と諦めていた。東野は、いつの間にか「みんなのお手伝い」というポジションに収まり、入社2年目で早くも行き詰まった。その頃、社長の金子は東野を「アイウェアビジネスの最前線でハネそうな人材」と見ていた。つまり本社内で眼鏡の生産に携わる仕事ではなく、エンドユーザーと向き合う現場=ショップでこそ力が発揮できると感じていた。当時、次の直営店展開として東京都内での出店が水面下で決まっていた。そのタイミングがちょうど重なったこともあり、金子は東野にショップへの異動を命じた。自分が思い描く「やりたい眼鏡の仕事」と現実との乖離に悩んでいた東野にとって、この辞令はまさに渡りに船だった。
金子の目論見通り、東野はショップの現場で力を発揮し始めた。2001年以降、いくつかの系列店や直営店に勤務。ちょうどその頃、金子眼鏡がリリースした『SPIVVY』コレクションや、泰八郎謹製を代表とする『職人ブランドシリーズ』がヒットしてショップ展開にも勢いが乗り始めた。「どの店も激務でした。でも楽しかったですね。ショップの仕事に慣れてくればくるほど感じたのは、本社での地味な作業を経験したことの大きさ。商品が完成して店舗に並ぶまでの間、どれだけ縁の下の働きと支えがあるか。短期間とはいえ、本社で現場の経験をした自分はよう知っていますから。それを知っているだけで、商品との向き合い方はおのずと真剣になりますよね。商品は簡単に返せない。欲しい人にちゃんと伝えて、ちゃんと売る。そこまでの過程を大事にせなあかんという意識は、たぶん他のスタッフより強いと思います」

就活をしないアウトサイダーで、無鉄砲かつアンオフィシャルな方法で金子眼鏡に“潜り込んだ”若者も、今年で45歳。いまでは店長職に就き、さまざまな経験も積んだ。入社してからの22年、壁にぶつかったことや煮詰まったことは数え切れない。生来の風来坊が顔を覗かせ、自分に合った仕事が他にあるんじゃないかと思ったことも、正直なところ何度かあった。それでも、一度知ってしまったこの仕事の楽しさに勝るものは、今のところない。
「極論を言ってしまえば、ショップの仕事自体は毎日同じことの繰り返し。でもやっぱり楽しんですよ、この仕事が。眼鏡と直接関係がある・なしに関わらず、お客さまと喋ってるのがとにかく楽しい。なおかつ、僕がその店にいるからって理由でわざわざ来てくれる方々もたくさんいらっしゃるし、本当にありがたいです。これだけ長いこと働いてると、心境とか環境の変化もあったし、いろいろ思うところはありました。でも僕はいわば社長に拾ってもらった人間。恩義があるし、その恩をまだまだ返しきれてないですから、頑張らないかんなと思ってます(笑)」


PROFILE

東野英生/Hideo Higashino

大阪府大阪市出身。高校卒業後、滋賀県立大学に入学。大学在籍時代、アイウェアブームにいち早く反応し、眼鏡を仕事にしようと思い立って単身福井県鯖江市へ。メーカーへのアポなしのコンタクトを試みて、金子眼鏡に就職。2年弱の本社勤務の後、ショップスタッフとして東京へ転属される。2003年より、店長として名古屋や東京丸の内などの店舗異動を経て、現在は金子眼鏡店 二子玉川ライズ店・店長を務める。