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はじまりは最後列から。金子眼鏡の誕生。

2020.12.18
福井県鯖江市。人口7万人に満たない小さな街ですが、ここで生産される眼鏡フレームの生産量は全国生産のおよそ9割、世界3大生産地の1つとされ今日に至ります。
明治後期、農家にとって農閑期となる冬場を生き延びるための副業として始まった鯖江の眼鏡づくり。
戦後の復興と高度経済成長期のはじまりを契機に、家内工業規模の小さな町工場が増え始め、のちに鯖江市の経済を支える基幹産業となるまでの礎が築かれました。
金子眼鏡が鯖江で産声をあげたのは、まさにそんな時代のさなかです。

1958 (昭和33) 年、金子鍾圭は家族経営の眼鏡卸問屋『金子眼鏡商会』(以降 金子眼鏡) を名乗り、本格的に商売を始めます。
当時、鯖江にはおよそ100前後の卸売業者がありましたが、その中でも金子眼鏡はかなりの後発で、競争条件においても不利な立場だったため、取引額はきわめて少額。大手メーカーと取引する隙間もありませんでした。
当時の売上高は、100ある業者のうち95、96位程度といわれ、金子眼鏡はその最後列から抜け出せないまま、厳しい商いを強いられることとなります。

若き後継者、葛藤とともに鯖江に戻る。

金子眼鏡が誕生した1958年、のちに経営を継ぐことになる現代表の金子真也が生まれます。金子は高校卒業後、東京の大学へ進学しましたが、それは「大学を卒業したら家業を継ぐこと」を父に約束させられた上での進学でした。
そして4年が経ち、卒業の春を迎えた彼は、父との約束通り東京を離れます。

ときは1981 (昭和56) 年。数年後に訪れる空前の好景気に向けて東京が輝きを増していく頃。若者にとって、無限の可能性を秘めた大都会・東京を捨てること、そして決して順風満帆とはいえない斜陽の家業を継ぐこと。そのふたつの決断に大きな葛藤をいだきながら、金子は鯖江に戻り金子眼鏡に入社。家業を手伝い始めました。
当時の金子眼鏡は、依然として大手の問屋が幅をきかせる都市部を避け、北関東、東北、北海道などの地方にある眼鏡・時計の小売店を中心に営業するのが主な事業でした。

入社してまもなく、金子の心境にも変化が起きます。事業に携わることで、会社の売上げが直接家の収入の増減に結びつくことを肌で感じ、腹をくくってこの商売と真正面から向き合うことを決意。両親や顧客からアドバイスをもらいながら実践を積み、出張営業ではときに経費節約のためホテルではなくサウナに泊まり、ときに高速道路のパーキングエリアで仮眠をしながら、必死に営業活動に励みました。しかし泥臭く、懸命に営業をするほど「このままでは、最後列で戦った父の時代と何も変わらない」と悟り、強い焦燥感に苛まれました。

この状況を脱却するために、もがきにもがいた経験がのちの「改革」へとつながっていきます。